ロケット小説というのは多かれ少なかれロマンチシズムが流れてるものだが、この小説の感傷はちょっとただ事ではない。
『発狂した宇宙』を読んでこの作者は基本的にエンターテインメントの作家だと思うのだが、そこら辺も併せて考えると、あえてここら辺に作品を着地させたのが意外すぎて驚いた。
この感傷を生み出すには、やはり最後はああでなければならなかったのだろう。
しかし、ああ! 最愛の人の遺志を受け継いだ後、あれだもんなあ。肩すかし、とおもわれても仕方ないのかもしれない。
しかしあの解説はちょっとひどくないだろうか。
別に嫌いじゃないんだけどさ、グレンラガン。でもオレはフレドリック・ブラウンの復刊された小説をやっと手に入れて読んだわけでさ。たっぷり感傷に浸りたいところなのに、そんなグレンラガン連呼しなくてもいいじゃないか。ホントに。
2008年12月12日金曜日
天の光はすべて星
2008年12月11日木曜日
AURA ~魔竜院光牙最後の闘い~
「セカイ系の克服」という視点から読む。
すると彼女の求めるモノがセカイ系の結末に他ならず、それを卒業した主人公が彼女を導くという形式は、まあ格好から言えば説教くさいことになりそうではある。
でもこの小説の克服の方法はただの理屈ではない。実際社会側で生きることを選択した主人公の行動が掛け値なしに面白いので参る。心底参る。
単純化してしまえばそれはたとえば彼女の持つ価値観のレイヤー(「セカイの滅亡」「君と僕」)と、主人公の価値観のレイヤー(「君と僕」「クラス」「家族」「都市伝説」「過去と現在」)の数の違いによるのかなあ、とも思う。
単純に多ければいいという問題でもなく、セカイ系はそのレイヤーを減らし純度を高めることに意味があるのだろうけれども、多ければ多いほど問題は面白くなりうる。
これは受け手の側の興味も関係してくるか。
でもこういう方法でセカイ系をねじ伏せるなんて思ってもみず、正直読んでて歩けなくなった。本当に参った。
あと彼女の側に非現実の存在である可能性を残しているのも計算されたミソ。「あちらの理屈に正当性があり得る」ことを認めた上で、なおかつ主人公側の主張が勝利を収めることで、ものすごく説得力が増している。
2008年12月5日金曜日
Boichi作品集HOTEL
人間の手がまだ触れない
2008年12月4日木曜日
やってきたよ、ドルイドさん!
アヒルと鴨のコインロッカー
これくらい幸福な映画と原作の関係はないのではないか。
映画にすると聞いて「でもあの最重要トリックはどうするよ?」という疑問がまず真っ先に頭に浮かんで、まあ正直映画版の解決法はたいしたことないのだけれども、しかしこの映画の力点はまったく別のところにあるので全然問題ない。というか小説のトリックをそのまま映画に持ち込めるはずがなく、そこで新たな力点が必要になってくるのは自明の理であり、この映画化は物語の再構築に大成功しているのだ。
原作は構成とトリックが先行して、まあそれはそれでいいのだけれども、ちょっと焦点がわかりづらくなったような感があるのだなあ、とかえって気づかされる。
きっと「ハサミ男」も映画化に際してここを目指していたんだろうなあ、と思わずにはいられず合掌。いやいやオレは嫌いじゃないですけどね映画版も。