2009年3月31日火曜日

嘆きの天使 1

嘆きの天使 1 (1) (ホラーMコミックス) (ぶんか社コミックス ホラーMシリーズ)

もっとも恐ろしいのは人間だ、というのはゾンビ映画の古典的なテーマだが、この作品におけるもっとも怖いものは間違いなく作者だ。この漫画を描かせた情念が、コマの端々からびしびし伝わってくる。机の上にこの漫画をおいておくと、誰もが思わず一度手にとって、その後表紙を裏返して去っていくのは、やはりそういう手に取りたいが見たくはない怖いもの見たさみたいなものがあるのだろうと思った。

白山さんと黒い鞄

白山さんと黒い鞄 (電撃文庫)

「鞄」はこの作品における最も重要なアイテムであり、象徴でもあるはずだ。鞄がヒロインの性格を規定し、なおかつ主人公との関係性も描くキーアイテムとしても機能する。ヒロインがそれまでの裏切りの記憶を乗り越えて、主人公を信じるまでの課程を、いかに説得力を持ち描けるか。この作品の正否はおそらくここにかかっており、魅力があるとはいえそれだけでは武器にはならないヒロインの性格や、既視感ばかりが先につくバトルなどは二の次だろう。

現状、主人公がヒロインを裏切らないところに説得力がない。なぜ、かつての友人はヒロインを裏切ったのに、今の主人公は裏切らないのか。主人公を無保証で聖人にすれば、過去の裏切りがただの「主人公を引き立てるためのエピソード」に堕してしまう。
本来ならば主人公が鞄の魅力にとりつかれ、一度は彼女を傷つけてしまってからが勝負だ。もしかしたら作者はシリーズを通してやっていくつもりなのかもしれないけど、そりゃあちょっと暢気すぎると思う。

2009年3月27日金曜日

グリモワールの契約者―終焉の騎士アルヴァレス

グリモワールの契約者―終焉の騎士アルヴァレス (電撃文庫)

エンターテインメントは鬼ごっこである。受け手は怠慢な鬼で、作り手は自分を捕まえに受け手が走り出すよう、様々な技巧を凝らす。ある作り手は自分を格好良く見せる。ある作り手は自分を扇情的に見せる。ある作り手は鬼の知らない豆知識を披露する。日常の話題から共感を誘い、鬼と肩を組み歩き出すものもいる。なぞなぞを書けて答えを延々引っ張るものもいる。実はこれは鬼ごっこじゃなくかくれんぼだと言って相手を幻惑させ、その幻惑を楽しませるものもいる。
下手な作り手は鬼にすぐ捕まるだろう。あるいは相手より遥か先に逃げ出して、鬼の追いかける気力をなくしてしまうかもしれない。鬼の追いかける意欲をわかせることができない作り手も、世の中にはごまんといる。

けど最悪なのは、「これが鬼ごっこだ」と理解してない作り手だ。いくら自分を飾ってみても、いくら新奇な知識を披露しても、それが「鬼を走らせるため」ってことを根っこの部分で理解していなければ、鬼ごっこは成立しない。
鬼は金を払って会場にきている。残念だけど楽しい鬼ごっこばかりではないことは、多少すれた受け手なら誰だって知っている。それはたぶん仕方のないことだ。
でもせめて、作り手は鬼を楽しませる意志を見せてほしい。「これを見たら追いかけざるを得ないよね!?」って訊かれて初めて、「いやそれは楽しくねーよ」とか答えることができるわけで。

2009年3月26日木曜日

兵士を見よ

兵士を見よ (新潮文庫)

「エリート」とは何かというのをこれほど強烈に印象づけられた本は今まで読んだことがない。厳然たる実力社会。何千億という金額の戦闘機に乗れるのはたった一人のパイロットであり、そのパイロットを生み出すためにその何倍もの敗者が生み出され続けているのだ。しかしそのエリートすら、目の前に紙一重で迫る死とは無縁でいられない。
それでも彼らは空を飛びたいと願う。きっと、彼らの見る世界は、自分の見る世界とは違うのだ。
彼らの世界は想像できない、しかし違う世界があること自体は認識できた、それだけでも自分には価値のあるルポだった。

2009年3月25日水曜日

獅子たちはアリスの庭で―B‐EDGE AGE

獅子たちはアリスの庭で―B‐EDGE AGE (富士見ミステリー文庫)

今をときめく直木賞作家も、2002年とかにはこういうラノベを書いていたんだ! すげえ!
法廷モノのフォーマットとりながら、ラストの謎電話1本で解決するびっくり真相! 最後には法廷であることさえ無視して、印象だけで被告人を庇いきる! これは参ったぜ!

今はどうだかわからんけど、当時は全然頓着してなかったんだろうな。GOSICKとか見てもそうだし。

2009年3月24日火曜日

此よりは荒野

此よりは荒野 (ガガガ文庫)

ちょっと長いのとラノベ向きのわかりやすさがないのを除けば、読み応えのある良い小説だと思う。生き残る秘訣は強さではなく賢さと優しさと勇気という、ひどくまっとうなお話。敵役としてのクリーチャーは、ストーリーの中で十分に効果を発揮しているものの、やはりわかりやすい派手さがないのが惜しいなあ。

2009年3月21日土曜日

羽矢美さんの縁結び

羽矢美さんの縁結び (一迅社文庫 ふ 1-1)

とにかくヒロインの行動が気にくわなくて、いったいどこにその原因があるかずっと考えていた。
「男女がお互いに好意を持っているが、それが外的な障害に邪魔されている」という状況で、障害を壊すために暗躍するヒロインの話であれば、おそらく何も反感を抱いてはいなかった。
しかしこの小説のヒロインは、まずはお互いに恋愛感情を持たない男女の相性を見定め、そこにふたりがお互いに好意を持ちやすい状況を作り出す。無論第三者であるヒロインに、恋愛感情を直接生み出すことはできないが(他人の心をいじれる人間はいない)、しかし「彼女がいなければふたりの間に恋愛感情は生まれなかった」。言い換えれば、ヒロインは自らの意志で第三者の人生を変えてしまう。

もしかしたら自分はこのヒロインの行動を、「一流企業に入りやすいために、息子を塾に通わせる母親」と同様の視点で見ていたのかもしれない。
善意で行動しているのはわかるし、その行為を正当化することもできるのかもしれないが、それってある意味不遜な態度じゃないのか?
そして他人の人生を変えてしまうほど重大な決断をしているにもかかわらず、そのヒロインの信念がきちんと正当化されているようには思えない。少なくとも自分は、読んでいてヒロインの行動を支持できなかった。

2009年3月18日水曜日

ラドウィンの冒険

ラドウィンの冒険 (電撃文庫)

自己犠牲と利己心の分断を精霊というガジェットを利用して行う、というところまではかろうじてファンタジーである意味を持たせられたはずなのだが、全くそのテーマを生かす展開になっていない。
こういう分断をテーマにするなら普通身近な現代でやった方が親近感が出るわけで、そこをあえてファンタジーでやったからにはそれなりの意味が必要だ。
いやあたぶんファンタジーが書きたかっただけだろうけど、それだけのために気軽に利用されただろう精霊というガジェットになんか非常に申し訳なく思う。

2009年3月13日金曜日

東京ヴァンパイア・ファイナンス

東京ヴァンパイア・ファイナンス (電撃文庫)

ラノベである意味をそんなフィクション部分に求められても困るなあ。しかしラノベの看板を剥いでしまえば教養モノとしては内容が薄いし、かといってドラマ部分もそこまで飛び抜けた部分があるわけではない。だったら伊坂幸太郎読んじゃえよということを言いたいわけじゃないんだけど、でもねえ。
ラストで暴かれる街の闇のシステムと、モンスターになった各人が、噛み合ってるように思えない。「システム」を「個人」に還元してしまうことの意味とその死、モンスターの誕生。そこらへんが有機的に結びつかなければ、カタルシスは生まれないんじゃないのか。
各個人の物語に視点を下げても、おのおのの物語に何かの決着がついたとは到底言いづらく、裏切りはただ読者を裏切っただけでそれ以上の意味をなさない。それぞれの設定やアイディアは悪くないし、絡ませ方も部分的には悪くないんだけど。こういう構成でこういうテーマを扱うことに対して、配慮が足りないんじゃないか。自分の読み落とし?

2009年3月11日水曜日

これはゾンビですか?1 はい、魔装少女です

これはゾンビですか?1  はい、魔装少女です (富士見ファンタジア文庫)

ゾンビに魂はあるのか?

「自分を殺した人間がいる」「だから復讐する」というのはあくまでも外的な動機付けでしかない。
彼はなぜ自分を殺した何者かを捜し、復讐しようとしたのか? それはすなわち、「彼はなぜ殺されてはならなかったのか?」という問いでもある。ゾンビになったことで、彼の将来のどんな可能性が消されてしまったのか? 主人公はどんな内的な動機から、犯人を憎むに至ったのか? そもそもゾンビとなった主人公は、本当に犯人を憎んでいるのか?

結論から言ってしまえば、おそらくゾンビに魂はなかった。内的な動機はなかった。ただ外的な要請だけが、彼を殺人者への復讐へと駆り立てていた。なぜならゾンビになって悪いことなんて、陽に当たるのがつらいってこと以外、ひとつもないのだから。
だが、物語の途中でゾンビは疑似家族を得る。彼女たちとのふれあいによりゾンビ獲得したものこそ内的な動機であり、主人公の魂だ。「彼女たちを守りたい」という殺人者への怒りが示されてから初めて、彼の復讐劇に読者は共感するのだ。作者はそんなこと意図していないのだろうけど。

作品自体に傷は多い。それぞれの特殊能力を印象づけ、あれだけの短期間でたたみかけるように新たな敵を投入するのは非常に過剰で良いのだが、特に後半、インフレーションする能力を作者が捌き切れていない。前半の肉体限界パーセンテージ的な物差しがあると楽なんだろうけれども、異なる種族の間ですぐに用意するのは難しいかもしれない。以降の展開で力関係を描くのに苦労しそうだ。

ギャグ要素は決して悪くないのでそっちの方もこのままがんばってほしい。だがまあこれは作品内容とは全然関係ないのだけど、ネルリの前に読むんだったなあ、とは思う。あと逆さ読み呪文といったら『ゴクドーくん漫遊記』だよなあ、とも思う。

2009年3月10日火曜日

耳刈ネルリ御入学万歳万歳万々歳

耳刈ネルリ御入学万歳万歳万々歳 (ファミ通文庫)

これだけ笑えるラノベは滅多にない。これを掬ったファミ通文庫に心から拍手!

冒頭からいきなりトップギアですっ飛ばすもんだから、正直入りの印象は良くない。というかマズイ。いきなり異世界ファンタジーで独自の世界観で国もキャラも覚えきれないほどたくさんあってしかもメインヒロインがわかりやすい定型じゃないときた。普通に語ってもわかりづらい世界観が、しかも妄想だだ流しの主人公の主観で語られるモンだから、ストーリーを追うので手一杯。
しばらくするとだんだんギアも合ってきて「おうこの妄想文体は素敵だなあ」と思うのだけれども、この文章が真価を発揮するのは愉快文がただの愉快文ではなく主人公の照れ隠しと理解できたとき。きっと照れを隠してるのは作者も同じで、ボイコット中のチラシ回収エピソードでわかるように、結構めんどくさい状況と悪意に充ちた世界を用意しておきながら、しかしどこかで「善意」ってのを信じさせるエピソードが随所に散りばめられてる。で、あのラスト。もうホントに素直じゃない。
でもまあ、本心からの言葉って普通は照れるのが当たり前で、本当のことこそ捻くれた感じで伝えた方が真に迫って聞こえるなんてのはよくあるワケで。声高に「自由・調和・博愛」とか言う方がウソクセーのはファンタジーの世界でも同じって寸法ですかね。

2009年3月9日月曜日

三国志

公式サイト

久しぶりに途中で映画館を出たくなる作品を観てしまったぜ!! ここしばらくで最悪の映画だった。

まあいきなり趙雲が張飛・関羽二人がかりと互角の戦いをしてしまう時点で「あーあ」という感じなのだが、この作品自体が三国志演義とは異なるストーリー展開であるし、オレも別にそんな三国志ファンというワケではないので、まあ、まあ、まあ、百歩譲ってもやっぱり許せねぇよなあ。

別に「三国志」という冠がついてなくても普通に脚本がダメ。
たとえば趙雲の強さの説明についてだけれども、普通のエンターテインメントは誰かの強さを印象づけるために「インフレーション」を起こさせる。最初は街に手のつけられない暴れ者がいて、でもライバルキャラがそれをこてんぱんに伸してしまう。そのライバルキャラをやっつけるから、主人公の強さがピラミッド状に保証されるわけで、そこから生まれるのが「かませ犬」の概念だ。
ところがこの映画の場合、まず関張かませ犬もあてがわれないまま突然、ぽっと出一般兵趙雲と二対一の戦いを強いられて引き分け。三国志を知らない観ていない人間からすれば、「趙雲つえー」っていうよりはむしろ「関張って二人がかりでもぽっと出の一般市民に勝てない雑魚だねー」と判断されるべきところ。
この作品は、まず最初になんだか知らないけれども無保証に強いらしい「趙雲」というキャラクターがいて、そこから引き算で敵の強さが決まっていく構造なのだ。いくら矢傷を負ってたとはいえ、曹操の孫娘ってだけの女とほぼ互角の戦いしてる趙雲、どうやったら強いって思えるんだ? デフレしてどうする。

「三国志レギュラーメンバー」をすっぱり切ったせいで、趙雲の動機が曖昧になってしまったのもひどい。とってつけたように「天下太平のため」とか言われても、趙雲のキャラクターからもストーリーからも浮いているように感じられてしかたない。何のために趙雲が戦ったのかその動機に観客が共感できなければ、いくら戦死覚悟で特攻したところでなんの感動もない。たぶん娯楽映画って枠組みと予算から尺を逆算したせいで、重厚になってこそ生きるだろうシナリオのテーマが、完璧に殺されてるんだよなあ。
そして尺の帳尻あわせのために死せず仲達を走らせることもない愚鈍すぎるぐんしーどの、孔明! ってかさ、あんなサクッと裏切りを許しちゃう趙雲には、兄ちゃんの気持ちは一生わかんねーよ!

もうね、何が言いたいかっつーと、「アラトリステ」は最高だったぜ!

2009年3月7日土曜日

スクラプ’s

公式サイト

縁あって初めてパントマイムを生で見る。
他の物と比べてどうかとかは判断しようがないが、少なくとも自分は、観ている間あまりにも面白くてどうしようかと思った。

・「見立て」の心を忘れるな!
・パントマイムで試されるのは観客。観客は役者の演技に解釈を見つけなければならない。しかし、舞台は次々に同じ演技の新たな解釈の可能性を提示する。そのたび我々はテキストを読み替える。そこに生まれる発見の喜び、戸惑い、酩酊。
・今更CGで恐竜が現れることよりも、巨大な顔が目の前に突如として現れた方がびっくりする。通常の生活・解釈のフレームを破壊すること。
・役者が「風に逆らい、右から左に移動する」これだけでそこに「物語」が生まれる!
・動きが生み出す説得力。こちらの解釈によって役者の顔の老け方さえ変わって見える。

パララバ―Parallel lovers

パララバ―Parallel lovers (電撃文庫)

読み物としては良くできている。次から次へと細い線がつながっていく展開は白眉だが、導入などに見られる細かな演出も非常に良くできていて、作品の端々ではっとさせられる。

残念なのは、作品の立ち位置が間違っているように感じられたところ。ライトノベルらしい求心力をもつキャラクターを中心に置かなかったのは作品としての判断だからある意味問題ない。世界がパラレル化してしまったことに何ら説明を裂かなかったのは、ああいう導入にした以上読者の興味がそこに焦点を結ばざるを得なくオチに肩すかしの感を与えるのと、平行世界への「メール云々」の疑問がやけに作為的に感じてしまうことを除けば、まあ許容範囲内だと感じた。
だが、「主人公の恋心」に対する決着の付け方は、あまりにあっけなさ過ぎる。この作品においてもっとも重要なテーマとなるのは、「主人公が死別した恋人への思いをどう処理するか」の一点であり、間違っても学園を巻き込んだ犯罪ではない。事件の解決と勧善懲悪なんて副次的な結果に過ぎないのであり、外的なストーリーの展開とともに、行き場をなくした主人公の恋心という内的なストーリーが、何かしらのカタルシスを得るべきだったのだと思う。その意味で、あのラストの唐突な別れはないんじゃないかなあ。
なんとなく流れで墓参りに行くようなラストじゃなくて、まあベタだけど、ラストで涙を拭って笑顔で歩き出して、でも読んでるオレたち号泣……みたいなオチになるべきだと思った。

2009年3月5日木曜日

ギャルゲヱの世界よ、ようこそ!

ギャルゲヱの世界よ、ようこそ! (ファミ通文庫)

なんかものすげー既視感のある問題を持ってくるなあ、と思ったら作者がギャルゲ好きの30代。あー例のアレか。

「主人公が交流することによって不幸が改善されるヒロインが、主人公と出会わなかった場合はどうなるか」「ゲーム的リアリズムを持つ虚構のキャラクターが現実世界に混じった場合どうなるか」というふたつのテーマがごっちゃになってて、かなりわかりづらいプロットになっている印象。
最初に提示される問題は前者なんだけれども、「バグ」のあたりから後者にテーマがシフトする。

まずは後者「ゲーム的リアリズムを持つ虚構のキャラクターが現実世界に混じった場合どうなるか」。ゲームのヒロインがクラスにいたらまあぶっちゃけいじめに遭うよねという話。ゲームのような勧善懲悪の世界ではなく、不条理な障害が次々に襲う現実の中、彼女たちは問題に対処し、妥協し、生きていかなければならない。そこに、勝手に虚構のキャラクターを現実世界に呼び戻した主人公の責任感と苦悩が重なる、という構造。
舞台が現実世界である以上、本来主人公はいじめに遭ってるヒロインの極端な行動を修正し、彼女たちと現実世界の不条理に折り合いをつけてやるのが筋。ただそれには「ヒロインのキャラクターとしての特性を殺さず」なおかつ「いじめという現実的な問題に対処する」というエロゲにハマるオタクちゃんには到底決められっこないウルトラCが必要だ。っていうかどうすりゃそんなアンビバレントに説得力持たせられんのよ?
で、そんなウルトラCが不可能だと悟ったのか何なのか、この作品ではヒロインと対立していた「現実世界の不条理なリアリズム」を「ゲーム的リアリズム」におとしめることで、この問題を解消している。どんな陰惨ないじめが起きようと、それは主人公が「一念発起!」すれば不良は改心みんなも感謝、全てが丸く収まるという到底現実味のない解決法である。イヤッホー!
まあしかし、この作品は当初から「虚構」と「現実」が区別されたベタなメタ構造をとっていて、最初から「現実」にいた主人公が「虚構」であるギャルゲーを「設定の不備がある」だの「ご都合主義」だの批判していたわけで。そんなところに、現実にいたはずの主人公が虚構よろしくご都合主義なストーリーを展開し始めるとなると、主人公のギャルゲーへの批判がそのままこの小説・作者にそのまま返ってくる! まあなんて自己批判! メタ小説! 物語には何の寄与もしていないけれど!

で、ようやく前者の問題「主人公が交流することによって不幸が改善されるヒロインが、主人公と出会わなかった場合はどうなるか」なんだけど、これは一度この作品世界がある種のゲーム的リアリズムにのっとっていると認めた以上、「ハーレムギャルゲ」のフォーマットを導入することで簡単に解決できてしまうのだった。
もしも世界が「現実側」に残った場合、「ハーレムは倫理的に不可能である」という常識的な判断と「ヒロイン全員を幸せにしたい」という願望の間で葛藤が起こるんだけど、この世界がゲーム的なリアリズムに支配されている以上、常識的な判断なんて重きを置く価値がない! 主人公が「みんなが大好きだー!」と叫べばクラスメイトも街のみんなも「君のがんばりは知ってるよ!」「おめでとう!」「おめでとう!」と拍手してくれるのである。やれやれ。

メタ構造をとって虚構を見下ろしている以上、現実の問題は「主人公ががんばったくらいじゃ覆せない困難」であるべき。「困難」に十分な説得力を持たせないとただのご都合主義に終わる、ってのはどんな話でも当然なんだけど、でもこの作品はメタを根幹に置いた作品であるが故に、その失敗が倍返しになってやってきました! という感じ。

2009年3月4日水曜日

夜は短し歩けよ乙女

夜は短し歩けよ乙女 (角川文庫)

なんとオモチロイ小説でしょう。
ひとりの青年の自尊心は、恋愛という未知の領域へと踏み入れるにあたって、現実の非現実を隔てる境界さえ壊さなければならなかったという、まあなんというかどうしようもない小説である。本当にどうしようもない小説なのである。どう考えてもディテールが嘆息モノであり、無論短編としての小技なんかも文句がつけようがなく、何よりヒロインのかわいらしさは反則モノである。
しょうもないものの圧倒的な物量攻撃に白旗を揚げる。ごめんなさい。

2009年3月3日火曜日

月色プラットホーム

月色プラットホーム (一迅社文庫 み 2-1)

300ページ超の小説にする意味が全くない。3分の1もあれば十分。ほとんどドラマになっていない事件解決や、全く意味のない三角関係は、いったいなぜ必要だったのだろう? なくても本筋は成り立つし、逆に言えばその部分がなんの機能も果たしていない。
この作品の一番マズいところは、おそらく「主人公にできることが会話だけ」という点なのではないか。会話のみで解決できる障害に障害としての説得力を持たせることは至難である。この主人公が逃げた死人を説得して連れ戻すという一話解決型のお話がきちんと展開されたとしたら、心から平伏します。
まあかといって、突然「何となくできそうな気がするんだ!」で身体乗り移られても困るけど!

2009年3月2日月曜日

愛怨峡

愛怨峡 [DVD]

それまでの感情の積み重ねが爆発するラストの展開に痺れる。特に「私は本当は彼の心を知っていた」との告白! そしてその後、隠居が乗り込んできたとき、屋敷から出るドリーショット! 痺れる!
もちろんそれまでの展開も、ユーモアを交え飽きない。特に当時の東京の描写が印象的で、高い空へもうもうと煙を吹き出す煙突は本当に印象的だ。決して悲惨なエピソードが多いというわけではないのだが、それでも彼女が経てきた苦労をしっかり想像できるのは、人間の描き方が巧みなのだろう。

それにしてもフィルムの状態が惜しい。