「地雷」という現実的にもかなりシビアなテーマを作品の根幹にしておきながら、しかし描かれるキャラクターたちのエピソードがあくまでも深みのない絵空事で、全体的にちぐはぐな印象を与える。一人の王女が軍を動かすことにここまで説得力がない(そしてそれを許容してしまっている)のでは、作品として立ち位置を見誤っているのではないか。
人間の愛憎が生み出した戦いが、一気に神話的な存在に飲み込まれていく様は確かに心を揺り動かされるものはあるが、しかしその作品のクライマックスと群像劇という形式が上手く噛み合っていないように感じた。有り体に言ってしまえば、前半の群像劇がただのかっこつけにしか見えないのである。
(群像劇自体が悪いわけではない。あのページ数であれだけのキャラクターを描いたのは確かにいい仕事だと思う。ただ、作品の構造にそぐわない)
この作品は、芯として作者があとがきで書いた「砂漠を走る少女」のイメージをしっかりと通すべきではなかったか。一人の非力な孤児が、幾度となく苦しみ、世の中の汚らしい姿を見せつけられながら、それでも心の清らかさを失わずにただ走ることだけを心の支えにして生き続ける。少女は成長とともに社会に巻き込まれ、貧困、愛憎、戦争、といった人間たちの愚かさに直面させられる。そしてその人間の愚かさの頂点として、憎しみを生み出すためだけの地雷と、愛が故に世界に争いを招く女王が存在する。砂漠で行われるクライマックスの戦闘は、まさに人間の戯画である。
人々は殺し合うことしかできない、大人になった少女はそれをちゃんと知っている。だがそれでも、彼女は走り続ける。人々に愚か者と罵られ、一人の人間が何をできると嘲笑されながら、憎しみと死が埋もれる銀の砂漠をひた走る。走るという純粋な行為だけが、神話や考古学や戦争や憎しみや人々の愚かさを完璧に振り切って、ただ一人、彼女を砂漠の神と同等の立場へと導く。
ところで砂漠に蟹といえばガルディーンですよね。
2009年2月25日水曜日
銀世界と風の少女
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