変態百合ミステリ。ヴィクトリア時代のイギリスの古城。禁忌に禁忌を重ねたその舞台設定だけで勃起。じゃねえや濡れる。
冷静になってミステリとしてみるとそんなに工夫されているというわけでもないかもしれないが、まあこれはもう百合小説として読まざるを得ず百合百合で百合なのでもう百合で、だからいっぱいいっぱいになってしまったオレの脳に冷静になる余裕なんてねーよ! どんでん返しがズバコーンと決まったのだがこれでは終わらないのだろう。胸を詰まらせながら下巻へ。
2009年4月29日水曜日
2009年4月28日火曜日
2009年4月24日金曜日
原点回帰ウォーカーズ
変な話である。ファウストの直系がようやく市場に出てきた感じ。
ループする物語の中で記号化される主人公たちが記号化された死を繰り返し、運命に抗おうとする話。
虚構に虚構を塗り重ねたところでいったい何を生み出すか、というところが重要になってくるのだと思うし、実際最初の章ではまさしく記号を逆手にとった描写が非常に良くできていたと思う。
だが、読み進むにつれて主人公のモチベーションと読者の希望がどんどん乖離していくのはなんとも。繰り返される死という記号は、物語が進むにつれて悲劇としての説得力を失っていく。
通常のループ物の場合、メタ視点を獲得するのが主人公のみで、その孤独が読者の共感を得るきっかけであったりするのだが、この小説においては登場人物の多くがメタ視点を獲得するため、さらに共感を得ることが難しい。いっそ開き直ってしまえばいいと自分は思うのだが、しかし最後に迫る運命をひっくり返すのは、あくまでも愛なのである。うーむ。
虚構と虚構を塗り重ねた世界の中、それでも輝く愛こそが運命をはねのけることができる……という筋書きだったのかもしれないが、構造的に問題がある印象。
2009年4月23日木曜日
MIB
長いことライトノベルを読んできて、これだけ主人公が気にくわないのは久しぶりだ。
喧嘩の後に「オレは謝るからおまえは上から目線やめろ」って理屈でヒロインに迫る主人公、どうやって好感持てばいいんだろうか? あり得ない。
本筋に全く関係ない竹林というネタキャラクターがあれほど無駄に描写されているのを考えると、主人公の性格の悪さも作者が意図したものではなくて、おそらく力量不足なのだと思う。
ハーレム小説の主人公が凡人で常識人なのは読者の感情移入の対象だからであるが、その凡人も「光るもの」を持っている。
社会はそれを認めてくれないが、しかし確かに心に秘めた「光るもの」。それはヒロインたちが凡人である主人公に惹かれる理由であり、同時に読者から主人公への共感の入り口である。
それは「愚直なまでの優しさ」かもしれない。「周囲の目を気にしない正義感」かもしれない。「どんな苦境に遭っても、女性には優しく接する」という信念かもしれない。
だがいずれにせよ、「光るもの」という行動原理を元に、読者は主人公に感情移入し、主人公のハーレム状態に心躍らせる。
だが、もしも凡人たる主人公に共感できる行動原理が見あたらなかったら?
「嫌いな人」の恋愛話を楽しく聞くことはできず、「嫌いな人」にべったりなヒロインに、好感は抱けない。
おそらくこの作品の主人公の行動原理が意識されれば、ヒロインの立場との関係性から物語の大筋が導かれたはずで、そこを作者なり編集なりが自覚していれば、竹林なんてキャラクターは不要だ。
たとえば主人公の行動原理が、祖父譲りの「生活力」「礼儀正しさ」にあるとすれば、異世界からやってきた「生活力がない」「人間を下等生物としか思っていない」ヒロインとの対立軸がはっきりと浮き彫りになる。
礼儀正しさへの意識の違いから、「常識」と「非常識」と思えていた対立図式が、ヒロインのバックグラウンドを知るにつれ、「常識」と「もう一つの常識」のすれ違いだと言うことがわかるその課程を描くのであれば、ファーストコンタクトものの意味もより出るだろう。
ギミックのおもしろさを競うのはそれからで充分だ。
2009年4月22日水曜日
シュラキZERO きみが私の騎士だから!
官能小説は印刷された文字に勃起するんじゃなくその向こうにあるものに勃起するんだっつーの。「キャラ」の向こうに心揺さぶるものを描かずして、こういう小説を書く意味ってあんのか? よくわかんないけど。
能力を持つヒロインと無能の主人公のギャップを描くためには、まずヒロインの強さを描かなければならない。文章中でいまいち描写が弱かったことや、挿絵に全くそういった要素がないのは、この小説の一番大きな傷だと思う。
「なぜ戦闘美少女でなければならないのか」という問いに答えて初めて、内面的に隙を抱えた少女たちとの日常が意味あるものになるのに。
定型の変奏は、主題を正確に捉えて初めて成立する。原作付きだかなんだか知らないが、もう少しまじめにやって欲しい。
2009年4月15日水曜日
2009年4月14日火曜日
サディスティック88
ヒロインが強気なこと言って主人公をブン殴ってればヒロイン像完成! って今風ラノベの作者にはこれを熟読していただきたい。Sとして愛を育むのはそんな単純なことじゃないんだよ! Sの根底に愛が必要と喝破したのももちろんだけど、あとがきで「パートナー」の存在に言及した作者はたぶん間違いなく本物。
ストーリー的には「父親再婚で連れ子家族でまあ大変」という手垢まみれの代物だが、本筋が手垢にまみれようがなんだろうが面白いものは面白いわけで。一巻の量でこれだけのキャラに役割を与え書き分け、「学校盗撮問題」というこれもまたいかにもどうでもいいような本筋でありながら、きっちりSvsS頂上決戦的なドラマを成立させているのもすばらしい。あとライトノベルのエロスとはかくあるべき! な感覚を久々に呼び起こされてちょっと泣きそうになる。
作者は本当にわかっていますね、としか言いようのない十全なSMライトノベル。グレイト。
2009年4月8日水曜日
2009年4月3日金曜日
いつも心に剣を 1
1巻目の導入としてみたとき主人公たちに積極的な目的がなさ過ぎるという欠点はあるものの、内的ドラマでぐんぐん読まされてしまった。
市民や義勇兵の象徴性があまりにも極端で、君と僕の純粋さと極端なコントラストを成しているものだから、そこで単純に善悪を定めちゃうのかなあ、と思ったが騎士団のおかげでそうはなりそうにない。きちんと汚い大人の世界の説得力として機能してくれそうだし、君と僕の間にも悲劇臭がプンプン。これからの展開に期待できる構造が埋まっている。いいね。
例の一人称短文パートは、文体としての武器になり得る力を持っているのだから、乱発はよした方がいいと個人的には思う。映画でもスローモーションは見せたいところに絞って使う。
2009年4月2日木曜日
ぷっしゅ!
エンターテインメントはその本質を極力隠そうとする。
コンピューターRPGの本質は、「大きな障害(ボス)を倒すために小さな障害(雑魚)を倒し自分のレベルを上げる」ことにある。小さな障害の積み重ねが、 大きな障害を倒す担保になるわけだ。だがしかし、RPGを「カタルシスのための装置ですよ」なんて言うクリエイターはいない。むしろその本質を隠匿するた めに、物語やらゲームシステムやらに様々な工夫を凝らす。
恋愛シミュレーションゲームならばさらにわかりやすい。恋愛シミュレーションはそのジャンルからして、ヒロインと結ばれることが保証されている。しかしゲームのプレイヤーは、プレイ中にその保証をできる限り忘れたいと望むに違いない。「どうせヒロインと結ばれるんだけどね」という本音は別として、「この恋愛は果たして 成就するのだろうか?」という建前こそが、プレイヤーをエンターテインメントに没入させるのだ。
さて、この作品はずばり「ヒロインを恥ずかしがらせたい」という動機が本質であるのだが、それを実現するまでのプロセスを追ってみると以下のようになる。
「1.強大な敵がやってくる」
↓
「2.ヒロインが恥ずかしがると覚醒して敵に対抗できる」
↓
「3.恥ずかしがらせるしかない!」
絶対おかしい。なぜ、恥ずかしがることが強大な敵へと対抗しうる力を発揮することに直結するのか。「2」は明らかにストーリーの枠組みを外れた、「作者の都合」を想起させずにはいられない。通常の物語において、作者の都合が見える構造は「ご都合主義」と非難される。
物語の枠組み内での説得力を持たせるために、せめて2番を分解し、
「1.強大な敵がやってくる」
↓
「2.ヒロインが強い感情を抱くと覚醒して敵に対抗できる」
↓
「3.ところでヒロインはものすごい恥ずかしがり屋だ」
↓
「4.恥ずかしがらせるしかない!」
といったあくまでも物語の枠内での説明を行うべきだ。
創造主に「こつこつレベルあげてカタルシス得たいんでしょ?」「ヒロインと結ばれたいんでしょ?」「恥ずかしがる彼女が見たいんでしょ?」と直接聞かれて嬉しい受け手がいるだろうか?
いやまあそれを除いても傷が多すぎる作品だとは思うんだけど。
脳挫傷を負わせようとかいうヒロインの言動は明らかにギャグとして処理できる範囲を超えており彼女に好感を抱きようがないだろうとか。
見た目の問題からして白虎とコンビを組ませるべきは力強さの象徴ではなく儚さの象徴であるべきだろうとか。
「ヒロインを恥ずかしがらせたい」という動機が作品の本質なら行き当たりばったりの変身ではなくもっとヒロインが恥ずかしがるシチュエーションにこだわりを持つべきだろうとか。
2009年4月1日水曜日
生きものの記録
何この力業?
「原爆」にリアリティがないのはおそらく自分の世代の宿命で、老人の動機に共感できないのは仕方ないだろう。
だが、それでもあの老人の狂気じみた行動に感情移入をさせられてしまったのは、「土下座」のシーンがあまりにも心を打ったからだった。あのシーン以前と以後で、物語には大きな外的な変化がない。「やれやれこのじいさんみんなを呼び出して、また一緒に来いとか怒鳴りつけるのか」と思ったら土下座である。それまで全く「原爆」という動機に共感できなかった自分も、血族への愛情ははっきりと共感できた。老人を駆り立てていたのは、狂気と紙一重の愛情だったのだ。それを理解した瞬間、それまで全く共感できなかった老人への同情が、一気に湧き出した。まったく、アレが力業じゃなくてなんだってんだ。
深すぎる愛情はやがて狂気となり、老人は精神病棟へと入る。映画は血族とそれ以外の愛情の差異をくっきりと浮き彫りにしながら、終幕を迎える。
ああ、恐るべし橋本忍! この脚本から滲み出る情念! そしてそれを最大限発揮できるように設計された全体の構成!
幻想綺譚クラウストルム 夕闇の血族
ものすごく馬鹿に見えるキャラクターがいるとして、それが殿様という設定であることがあとでわかっても、一度馬鹿だと感じたキャラクターが偉く見えるわけではない。普通はむしろ逆で、そんな馬鹿が殿様をやってる国はたいしたことないと感じるだろう。
設定がキャラクターの印象を形作るのではない。キャラクターの印象が設定を保証するのだ。
どれだけ強さを設定で補強したつもりでも、そもそも読者がキャラクターの行為からその強さを実感できなければ何の意味もない。TRPGで「俺TUEEEEEEE」してるんじゃないんだからさ。
あとオリジナリティがないことには特に文句は言わないんだけど、だからといってヴァンパイアハーフって設定がまあよくある定型としてしか扱われていないのはさすがに問題だと思う。何か工夫を。