指輪物語って源流に触れておいて、この立ち位置の危うさはどうも信頼できないなあ。
キャラクターをゲーマーとして見せるのなら、単なるネタとしての消費ではなく、その奥にあるRPGの神髄みたいなところに迫って欲しかった。
現実とRPGの架空世界を対比させてストーリーを創るとき、その一番根本にある差異は「努力が認められるか否か」に求められると思う。努力すれば努力した分だけ、その世界の脅威が除かれていくというのは、報われない現実世界に対する強烈なカウンターだ。「最初から最強」という語り口で、成長の楽しみが奪われてるのは大幅な魅力減に感じた。
成長でステップアップで神話的な大魔王を倒す、という価値観が通用してねえのかなあ。でもファンタジーRPGってそういうもんであって欲しいよなあ。
ストーリーのことをいえば、「死」が明らかに軽視されすぎている。実際に誰か味方が死ぬわけでもなく、形式上の「死」を担保にして「胸を張って生きるために本気出す!」とか言われても全く説得力がない。カタルシスもない。
主役が二人いるのは、お互いを補う役割をそれなりに果たしていると思うので、上っ面だけでなくもう少し身につまされる感情を描けたんじゃないか。
2009年5月31日日曜日
RPG W(・∀・)RLD1 ―ろーぷれ・わーるど―
2009年5月28日木曜日
東京都市計画物語
東京都市計画物語 (ちくま学芸文庫)
世界の見方が変わる本。
正直都市計画の本をこれほど面白く読めるとは思わなかった。元々地理を勉強したら面白いだろうなあ、とは思っていたが、普段歩いている東京の過去やそれに宿る思想に「気づかされた」感じ。
個人の短期の視点では見えない利益に、意義を認めること。過去からの利益を享受しておきながら、その視点が全くなかった自分が恥ずかしい。
2009年5月27日水曜日
2009年5月26日火曜日
相剋のフェイトライン
古ッ! というのがまず最初の感想。
改めて振り返って、世紀末的なディストピアは911を境に全然見なくなったなあ、と実感する。WTC崩壊のようなドラマを見せられたら、世紀末的ディストピアにリアリティなんて感じづらいのも当然で、ライトノベルに出てくる敵組織が「もう一つの正義」をいただくテロ組織にシフトしていっている……という流れは確実にあると思う。民族の対立とかがキーワードになってくるわけか。
そうやって考えてみると、この小説の「超能力で世界を牛耳ってる凄いディストピア組織」と「それに迫害されつつ間違った正義に反抗する能力者主人公」という対立軸は、やっぱり古い。古いのは一概に悪いこととは言えないんだけど、その形式の中から今の時流に対しての問題提起があるといいんだけどなあ、と思ったりもする。望み過ぎってことはないと思うんだけどなあ。
それはさておき能力者バトルモノとして見たとき、それぞれの能力が厳密に規定されていないため、「こんなこともできるよ!」という後出しじゃんけんバトルになってしまうのがなんとも。修行&成長型のストーリーではなく、三人称でキャラとキャラの組み合わせによるストーリーなのだから、ある程度手の内を見せつつバトルの行方を読者に想像させることが必要だと思う。地形などの利用の仕方も非常に残念。
キャラクターについても、読者に血肉が伝わらない印象。目の前で両親を焼き殺された、って回想で説明されただけで滂沱して感情移入するほど読者はカモじゃない。キャラクターに哲学を。好感を。感情移入を。
2009年5月23日土曜日
神のまにまに!―カグツチ様の神芝居
「騙り手」という免罪符を手に、AとBという対立するふたつの集団を騙し上げ、見かけ上の平穏を作り上げて万事解決、という主人公の立ち位置を、自分は認めることができない。それでは根本原因が解決していない。
この作品で対立が解消されるきっかけが、アマテラスという絶対者の介入や神の起こした災害という、外部からの強制であることも、納得のいかない理由。
本来ならば妥協点を見つけ合うことのできるAとBが、「騙り」という手段によって、お互いの誤解に気づくというのが理想。「騙り」とはあくまで手段であり、到達点ではないはず。
ところが本作品は「騙り」が到達点になっている。問題が解決していない。そこにあるのはただ仮初めの平穏だ。
で、ぼくのかんがえた『神のまにまに!』。
クライマックスで婦人会会長が河童と邂逅したとき、「騙り」は完成されてはならなかったのではないか。
騙そうとする河童。騙されかけた婦人会会長。しかし婦人会会長は、母としての直感から河童が息子と別人であることに気づく。婦人会会長は河童に殴りかかる。殴られる河童。婦人会会長は、息子にまで化けて人を陥れようとするなんて、なんて汚らわしい存在なのだろうと、河童を罵る。そこで河童は、婦人会会長の息子がかつての親友だったことに気づく。河童の告白。婦人会会長が知る息子の死の真相。
少年の死に対する誤解は、対立の原因の象徴である。
「河童」という存在に罪をなすりつけていた母親が、真相を知ることでようやく息子の死に向かい合うことができる――とか筋書きを用意すれば、騙りなんて納得のいかない解法を用意しなくとも、上手い具合にストーリーが収まるんじゃないか。
「神」が側にいることで、中途半端に達観した視点を持った主人公を、「騙り手になりきれない騙り手」として描くのも面白そうだ。完璧に他人を騙すことのできる最高神アマテラス。騙されてもしあわせであるならばそれでいいではないか、と主人公を導く。
しかし主人公は納得いかない。騙りきれば簡単にしあわせにできるものを、人間の情が理解できるものだから、つい騙りきれずに失敗し、様々な困難を背負うことになる。だがその失敗こそが、物語をあるべきハッピーエンドに導くのだ。で、そんな主人公の騙り手になりきれない欠点が、アマテラスから非常に魅力的に見える……とか。
2009年5月22日金曜日
果てしなき渇き
2009年5月18日月曜日
オルキヌス 稲朽深弦の調停生活
率直に言ってギャグが全く面白くないと感じたのだが、同様に全く面白さのわからなかった『生徒会の一存』がアニメにまでなっている以上、面白くないの一言で済ませるわけにはいけないのかもしれない。
ギャグの面白さとは何か、ずっと考えている。
ひとつ感じたことは、もしこの小説がアドベンチャーゲームだったとしたら、同じ台詞のやりとりも面白く感じられたのかもしれないということだ。立ち絵でキャラクターの表情がわかり、音声で台詞のニュアンスが伝えられれば、会話の受け取り方が違ったかもしれない。
逆に言えば、この小説は台詞の外のニュアンスを伝えることができていなかったのではないかと思う。自分は読者として、しばしば作者のギャグにおいて行かれたような印象を受けた。
そしてそのおいて行かれたような印象は、ギャグだけでなく作品全体にも感じられた。作者の持つ世界観の常識が、読者にきちんと伝わっていないため、常識のずれから生じるギャグやストーリーの意外さが、余りよく機能していない。
たとえば「ツンデレ」のようにキャラクターを類型化する作業は、もしかしたらその行間を埋め合わせる役割を担っているのかもしれない。共通の枠組みを利用することで、会話だけのやりとりだけでもキャラクターの言葉のニュアンスを想起させることができる。
じゃあ『生徒会の一存』で、普通の読者は行間が読めており、自分はキャラクターの共通認識を持っていないが故に、面白くないと感じられてしまったのか?
うーん、そうじゃないと信じたいんだけどなあ。
リビングデッド・ファスナー・ロック
2009年5月14日木曜日
クリスナーガ
主人公が眼鏡メイド・エレに騙されていたことが発覚して切れるシーンがある。あのシーンは表面上、自分を騙したことへの怒りを表しているものの、その根底には「無力な自分への鬱屈」があったはずだ。
突然異世界へと召喚された主人公は、訳もわからないままに世界を揺るがす大事件へと巻き込まれ、自分の無力感にさいなまれていた。それを救ったのが無表情な眼鏡メイドのエレであり、彼女が側にいることが主人公の心の支えとなっていた。
ところがある時、エレが主人公を騙していたことが発覚する。彼女は主人公自身を必要としていたのではなく、主人公の力を利用しようとしていただけだった――無力な自分に直面させられたからこそ、主人公はまるで別人のように怒りを露わにしたのだ。
だから本来ならば、主人公がエレとの関係を修復するためには、「自分がここにいることに意味がある」ということを証明する必要があったのではないか。
「実はエレにはこんなトラウマ過去があったんだ!」という新事実が露わになり、自分の至らなさをいくら反省したところで、主人公の無力さという根本問題は解決しないのだ。
2009年5月12日火曜日
2009年5月11日月曜日
スラムドッグ$ミリオネア
Q.どうしてスラム育ちの少年がクイズに答えてミリオネアになり得たのか?
A.映画だから
まあ映画で脚本があるんだから、クイズの内容なんていかようにでも操れるわけで、各エピソードもそれに合わせて配置できる。当たり前だけど。
そんな前提条件の中で、それでもこの問いを映画の大きな引きにするのだから、恐らく前半の回想はフェイクでもっと大きな仕掛けが炸裂するんだろう……と期待してたら見事に肩透かし。
作為的なクイズがあくまで恋愛という運命を成就させるための踏み台にしか過ぎない、という恋愛至上主義を持ち出すことで、うやむやのままにエンターテインメントしてしまったのだった!
「どうしてスラムの犬が億万長者になれたのか?」
「一人の女性を愛し続けたからだよ!」
それは流石にやりすぎだと思う。
2009年5月8日金曜日
ヒミツのテックガール ぺけ計画と転校生
2009年5月1日金曜日
耳鳴坂妖異日誌 手のひらに物の怪
別にオカルトなことを言うつもりはないけれど、物語ってのは登場人物やら立場やら設定した時点で自然と構造が決まり、語るべきテーマが生み出される――と自分は信じている。力学っつーかなんつーか、まあそういうモノ。
で、今回読んだ『手のひらに物の怪』は、そういう力学がすげーはっきり埋まってて、でもそこから導き出されるテーマがあんまり上手く掘り出されてないと感じた。
ので、後出しじゃんけんならなんとでも言えるぜ! 僕の考えた『手のひらに物の怪』いってみよう!
1.妖異とはあちら側の存在でなければならない
妖怪は境にいるものとかなんとか聞いた気がするけれども、読んで字のごとく妖異は日常から離れた場所にいる存在でなければ意味がない。
今作は大まかにいって、こちらとあちらの境界を軽率に踏み越えてしまった主人公が、しっぺ返しを受ける物語だ。そういった構造を際立たせるために、前半と後半の妖異像は明らかに異なった印象を与えるように描かれている。
しかし、自分には前半と後半のギャップが、ややアンフェアに表現されているように感じた。いろいろと理由はあると思うが、やはり主人公が境界をまたぐ前半の描写に、障害がなさすぎるのではないかと思う。ほのぼのとした妖異とのふれあいの中にも、「主人公は境界をまたいでいるのだ」という注釈を読者にもきちんと伝えることで、後半主人公の犯す失敗の重みが全く違ってくるはずだ。
2.支部長は過ちを犯してはならない
支部長はコミュニティを束ねる存在であり、各人員のひとつ上位のレイヤーで物事を見据える存在である。作中の描写からしても、彼は当面本作品における判断の基準点になるはずだ。
その支部長が、周囲の常識的判断と正反対に、主人公を不可思議な理由で受け入れているのだから、その判断は正しくなければならない。(おそらくこの支部長の判断が、1のように妖異が日常と異なるものに見えない大きな原因になっているように思う)
本作品において、支部長の判断は誤りだった。
もちろん、主人公の背後に強大な力が存在することを見抜いた時点で、「ひとつ上位のレイヤーで物事を見据える」という、物語上の役割は果たしているようにも見える。
だが彼の判断によって人員が瀕死の傷を負ったのも事実で、そうなった以上、支部長の判断は誤りと判断されてしかるべきだろう。
まあしかし、主人公が判断を誤り仲間を死に追いやらなければ物語が駆動しないのも事実。
自然な解決法は、「支部長が主人公に誓約を交わさせる」ことだろう。もし誓約が守られれば誰も傷つくことがなかった――といういいわけを用意することで、支部長の立場が保証される。
また、主人公が仲間を傷つけてしまったという負い目を、制約という非常に強い形で提示することにより、物語は大きく駆動させられる。
3.主人公の動機は贖罪が望ましい
さて、興味半分であちら側の存在に手出しし、仲間に瀕死の重傷を負わせるという大失態を演じた主人公は、一度組織を追い出されることになる。
彼は人間と妖異の圧倒的な力の差を見せつけられ、通常の人間が関与できない、非日常の理があることに気づかされるのだ。主人公は興味本位で、またいではいけない線をまたいでしまっていたのである。
「(前略)おうちに帰んな、坊や」(p.220)
組織を追い出す際の支部長の台詞はまさにそれを示している。本来ならば、子供である主人公がどれだけあがいたところで、大人になれるはずがないのだ。
しかし物語とは因果なもので、主人公がそこで日常へとどまり続けるわけにはいかない。一度組織を追い出されつつも、主人公はあちら側へと再度アプローチしなければならないのだ。
「役立たずを返上しよう、草太。使えるやつなんだって証明するの」(p.236)
上の台詞にもあるように、この物語において主人公の再アプローチの動機付けは、「自己実現」として描かれている。そして物語は最終的に主人公があちら側の力を使うことにより、自己実現が成し遂げられることになる。
しかしこの時点では、主人公があちら側の能力を扱えることが保証されていないため、主人公の動機付けが自分勝手なものに感じられてしまう。
この時点で、支所長の「主人公が足手まといである」という大人の論理は正当なものであり、主人公もそれに反論はできないはずだ。
それでも主人公があちら側に関わろうとするのなら、その動機は自己実現ではない別種の論理であるべきであり、おそらく「贖罪」がふさわしいだろう。
「自分が足手まといになる」という大人の理屈は確かに正しいが、しかし、それでも自分が犯してしまった罪を償いたい、自分のせいで傷つけてしまった彼女を救いたい――そんな動機が主人公を行動させれば、より物語の構造がすっきりとするはずだ。
4.ヒルダの役割ーー死者への憧憬
興味本位で異世界へと足を踏み入れ、そのせいで仲間との別れを経験してしまった主人公。これからも彼が異世界へと踏みとどまろうとするのなら、同じような危機が何度も襲いかかるはずであり、そのたび失ってしまった仲間――すなわちヒルダの記憶が脳裏をかすめるはずだ。「彼女のような目に遭う妖異をなくしたい」というのが主人公の動機になり得るのである。
その意味でも、ヒルダはもう少し「憧れの人」としての側面を描いた方が効果的に機能したのではないかと思う。死者への憧憬は永遠である。セイラさんである。
また、子供でありこちら側の世界の人間である主人公と、大人でありあちら側であるヒロインの対比というのは、やはり構造的に美しく見える。
5.刹里の役割ーーライバルとの対比
当初は主人公の先導者として、より「大人側」「あちら側」を進んでいる刹里。だがラストシーンで主人公は覚醒し、彼女よりも潜在的に高い能力を持っていることが示唆される。
おそらくここから先は、努力で積み重ねた能力により勝利への確立を少しずつ高めていく刹里と、高い潜在能力で状況を逆転する主人公との対比が生まれるだろう。
しかし、たとえ能力でのアドバンテージを失っても、刹里は精神的に主人公より「大人」であり、彼よりも多くのものが見えているはずだ。その点も含めて、以下に引用した初期のやりとりはいかにも皮肉で、ふたりの関係性を見事に表しているなあ、と感じた。
「あんたさ、ひょっとして学校の成績が良かったりするタイプ?」
「……何よ、急に」
「頑張ったら頑張ったぶん、結果が出て当然だと思ってるだろ?」(p.65)
能力的にはほぼ同じ立ち位置にありながら、努力と才能で分かたれるライバルヒロイン。恋愛を絡めるにはうってつけのポジションではないだろうか?
6.ミコトの役割ーー異種恋愛による正ヒロインの保障
本作品において、メインヒロインの位置にいるミコトは、外的なストーリー展開においてなんの役目も果たさない。何か特殊な攻撃能力があるわけではないし、運命的な役割を果たすわけでもない。
それでもメインヒロインとしての全うするならば、彼女は内的な動機を支えるべきだろう。一度は組織から追い出され、妖異にそっぽを向かれた主人公。折れかけた彼の心を再び奮い立たせたのは、たった一人残った妖異のミコトだった……というポジションである。ミコトが「携帯電話」についているのは、彼女がコミュニケーション能力に特化したことの象徴としてとれるだろう。
また、ヒルダでのエピソードでも言及されていたが、異種族が愛し合うことが禁忌ーーというのは、これからこの作品が続くにつれ、避けられないテーマとなってくるはずだ。しかしそれを乗り越えてなお、相手を愛そうとするその強い意志を表現することができたとすれば、それは「耳鳴坂妖異日誌」という作品の中で、なんの能力も持たないミコトが正ヒロインとしての立場を全うする説得力となるだろう。