思いつきで移行します。
http://d.hatena.ne.jp/hishamaru/
2009年8月11日火曜日
2009年8月9日日曜日
2009年8月8日土曜日
2009年上半期ライトノベルサイト杯
2009年上半期ライトノベルサイト杯に初参加します。
基本的に新規作品しか読まないので、全てそちらの部門の投票になります。
・新規作品部門
勇者と探偵のゲーム →感想
【09上期ラノベ投票/新規/9784758040822】
メタラノベの傑作! 上半期一番の収穫!
雰囲気小説なんてとんでもない! これは恋愛を軸足に再び物語を語ろうとするぼくの苦闘の記録だ!
耳刈ネルリ御入学万歳万歳万々歳 →感想
【09上期ラノベ投票/新規/9784757746473】
読みづらいからっておいてかれるな! 『山月記』のほうがよっぽど読みづらいぞ!
小説に没入することで得られる、今しか味わえない快楽! これをすくいあげたファミ通文庫に心から拍手!!
純愛を探せ! →感想
【09上期ラノベ投票/新規/9784797354973】
富士見ファンタジア文庫!? と一瞬勘違いするようなファンタジーラノベの王道!
アイディアはベタながらも、ラブコメとして非常に丁寧に描かれている良作。
サディスティック88 →感想
【09上期ラノベ投票/新規/9784094511246】
貧乳のツンデレヒロインが主人公を足蹴にしていればOKーーなんて時代はとうに終わった!
ここには本物の「愛」がある! SM小説の方をかぶった超良質の学園ラブコメです。
いつも心に剣を 1 →感想
【09上期ラノベ投票/新規/9784840126588】
今の日本において異世界ファンタジーを描くのは非常に困難だと思っている。
そこにあえて切り込み、真摯に世界を描こうとするその心意気に一票!
これはゾンビですか?1 はい、魔装少女です →感想
【09上期ラノベ投票/新規/9784829133705】
これを荒削りと言わずして、いったい何を荒削りと言えばいいのだろう?
天然と勢いが噛み合わさってできた奇跡! これぞ「今」のライトノベルの輝きだ!
アクセル・ワールド〈1〉黒雪姫の帰還 →感想
【09上期ラノベ投票/新規/9784048675178】
正直自分は、この小説が好きではない。本当にわかっているのか不安になるところも諸々ある。
だがしかし、それを補って余りあるエンターテインメント! 悔しい、でも投票しちゃうぅぅぅッ!!(ビクビクッ!)
えー。書いているうちに調子に乗りました。すみません。
普段は自分の創作メモのようになってるので、今回はなるべく煽る感じで。
下半期も面白いライトノベルに出会えるのを楽しみにしています。
2009年8月4日火曜日
2009年7月30日木曜日
夜と血のカンケイ。
『ルゥとよゐこの悪党稼業』に引き続き読んだら既視感。以下、類似点を箇条書き。
・異世界のヒロインと主人公が不本意な契約を結ぶ
・ヒロインは徐々に主人公に惹かれていく(ツンからデレへの移行を描く)
・クライマックスではライバルと対立するが、ライバルは女性で自分と同等の能力しか持たない
・ヒロインがゴスロリ
現在のラノベにおいてよく見る共通点だと思う。
ツンデレ・ゴスロリのセットはいい加減にして欲しい気もするがまあそれはそれとして、クライマックスでの対立が「圧倒的な力を持つ強敵」ではなく「同等のライバルである」というのはここしばらくのトレンドのような気がする。
主人公が傍観者であり、異能を持つのが少女であるフォーマットにおいて、主人公が強敵を倒して成長するモデルは通用しない。かといって一人称視点ではない少女を成長させてもカタルシスは薄い。
そこででどうするかというと、力関係が同等である「ライバル」を置き、クライマックスのカタルシスを「ヒロインの内面的成長」に求めるのだ。主人公と関わることにより、ヒロインは内面的に成長し、ライバルを退け、「ツン」から「デレ」へと移行する。なるほど、納得!
さて、立て続けに読んだこともあって、自分は『ルゥとよゐこの悪党稼業』とこの小説を比べざるを得なかったのだが、こちらの方が良く書けているように感じた。
特にヒロインと主人公の心が近づいていく課程が、外的な事件を絡めて上手く描けていた印象。それが如実に出たのは、やはりクライマックスのヒロインの内的成長の描き方だと思う。
奇跡は機能すれば効果的だが、そのためには機能させるだけの準備が必要だ。奇跡なんて外的な出来事を起こさずとも、少女の決心という内的なドラマで、クライマックスを描くことは可能なのだ。
あ、あと単純に主人公の立場が捻ってあって導入から面白いです。
ルゥとよゐこの悪党稼業
2009年7月24日金曜日
勇者と探偵のゲーム
僕らはいったい、どんな物語を語りうるんだろう?
絶対的な正義も悪も、リアリティを失った。
21世紀のこの時代に、努力と勝利の進歩主義を信じることは困難だ。
そんな中、物語は何を語るべきなのか?
ベタでネタでメタなストーリーが氾濫している。
だがメタゲームの向こうには無限後退があるだけ。
そこには何もない。
それじゃあ本当の物語ってなんだろう?
人は生きて、死ぬ。
それは恐らく物語の最も原始的な形であり、生に喜びを感じ、死に悲しみを覚える限り、人間は物語から逃れることはできない。
意味のない死を意味のないまま受け入れろだって?
物語を捨てる? 馬鹿な!
必要なのは、本当の物語だ。
誰かの借り物ではなく、納得のいく自分の言葉で、できるだけ誠実な物語を語ることだ。
それはきっと、誰かの借り物ではなく、納得のいく自分のやり方で、できるだけ誠実な人生を生きることなんだと、僕は思った。
2009年7月23日木曜日
その日彼は死なずにすむか?
2009年7月22日水曜日
とぅ うぃっち せる!
2009年6月24日水曜日
アキバをプロデュース 再開発プロジェクト5年間の軌跡 (アスキー新書
2009年6月18日木曜日
あやかしがたり
2009年6月17日水曜日
趣都の誕生―萌える都市アキハバラ
日本のいちばん長い日
2009年6月16日火曜日
IS(インフィニット・ストラトス)
ツンデレヒロインを複数用意するなら、ストーリーに絡めてそれぞれの立場の差異を明確化させなきゃ意味がない。「寮の同室」「バトルの師弟」「幼い頃の約束」というそれぞれのヒロインの根っこになるものは、対比されてストーリーにはっきり絡んだ緊張関係を持つべきだ。
ツンデレって性格がメタ化されて読者にも共有されてから、ヒロインがラベリングされただけで満足されてしまうラノベが量産されているような印象がある。本当はその向こう側にあるものを表現されて初めて、愛情を抱けるんだと思うんだけど。貧乳を気にしてるツンデレヒロインが主人公どつくパターンなんて、年に何十冊読んでるだろう? 怒りのあまり撲殺、なんて極北がすでにっていうかだいぶ昔にあるんだから、ツンデレのアクションで主人公災難型で見せようとしたってかなり工夫が必要だ。
あと、主人公が鈍感だが「男の子」にこだわる、というのは懐かしさが裏返って新しいのかもしれないと思ったりする。そんなわきゃないか。でもやるんだったら土壇場でもっと「男の子」するシチュエーションをつくらないとちょっと説得力が足りない。
2009年6月11日木曜日
星図詠のリーナ
キャラ立て、読みやすさ、エピソードのつくり他、手堅くツボを押さえている印象。悪くないが、難点がないわけではない。
最も気になったのは、「地図」という非常に巨視的な題材を、ヒロインの視点から説得力もってストーリーに組み込めてはいないように感じたところ。「地図」は市民の生活に密着するものでもあるが、それよりも国の軍事政策や都市設計といった、個人とは大局的な場所で機能するように思える。ヒロインの庶民視点に地図というギミックを引きつけるには、立て札程度ではちょっと説得力が足りないような印象。
あと、普通に立てられていて悪くはないんだけど、ライトノベルというジャンルからみたとき、本作品のヒロインはちょっと魅力が足りない。『狼と香辛料』なんてラノベにならなそうなテーマの作品をまず引っ張ったのは、間違いなくヒロインの魅力。たとえば弱点をつくるだけで、キャラクターとしての魅力が違ってくると、小池一夫もいっていた。気がする。
消えた魔球―熱血スポーツ漫画はいかにして燃えつきたか
消えた魔球―熱血スポーツ漫画はいかにして燃えつきたか (新潮文庫)
魔球カタログというよりも、むしろスポーツマンガ史のアウトラインをなぞりながら、その急所がどこかをなぞるという内容。
時代が進むとともにテーマが変化して、マンガとリアリティ・本気とはぐらかしなどの力関係の間で揺れ動く様が非常にわかりやすく解説されている。
「タッチ」の名言がひどく心に残った。マンガ史の流れを意識したものかどうかは別として、やっぱり名作には時代を象徴する一言があるものなのだなあ、と唸る。
2009年6月10日水曜日
メトロ誕生―地下鉄を拓いた早川徳次と五島慶太の攻防
メトロ誕生―地下鉄を拓いた早川徳次と五島慶太の攻防
正直言うと、色んなところで耳にしながら「幻の新橋駅」がなんでできたのかさっぱり理解していなかったのだが、いやあ、まさかそのバックグラウンドにはこんな話があったなんて。万世橋橋駅や渋谷の謎の地下鉄駅とか、そういう「ぼんやりとした疑問」に当時の鉄道状況も絡めて解答していく様は非常に面白い。のだが、やっぱりこの本の真骨頂は地下鉄創成期の二人の偉人の攻防にあって、特に前半、なんのコネもカネもない状態から地下鉄敷設へとがむしゃらに突き進んでいく早川徳次の行動力には舌を巻く。いやあ、すげえひとがいたんだなあ。
2009年5月31日日曜日
RPG W(・∀・)RLD1 ―ろーぷれ・わーるど―
指輪物語って源流に触れておいて、この立ち位置の危うさはどうも信頼できないなあ。
キャラクターをゲーマーとして見せるのなら、単なるネタとしての消費ではなく、その奥にあるRPGの神髄みたいなところに迫って欲しかった。
現実とRPGの架空世界を対比させてストーリーを創るとき、その一番根本にある差異は「努力が認められるか否か」に求められると思う。努力すれば努力した分だけ、その世界の脅威が除かれていくというのは、報われない現実世界に対する強烈なカウンターだ。「最初から最強」という語り口で、成長の楽しみが奪われてるのは大幅な魅力減に感じた。
成長でステップアップで神話的な大魔王を倒す、という価値観が通用してねえのかなあ。でもファンタジーRPGってそういうもんであって欲しいよなあ。
ストーリーのことをいえば、「死」が明らかに軽視されすぎている。実際に誰か味方が死ぬわけでもなく、形式上の「死」を担保にして「胸を張って生きるために本気出す!」とか言われても全く説得力がない。カタルシスもない。
主役が二人いるのは、お互いを補う役割をそれなりに果たしていると思うので、上っ面だけでなくもう少し身につまされる感情を描けたんじゃないか。
2009年5月28日木曜日
東京都市計画物語
東京都市計画物語 (ちくま学芸文庫)
世界の見方が変わる本。
正直都市計画の本をこれほど面白く読めるとは思わなかった。元々地理を勉強したら面白いだろうなあ、とは思っていたが、普段歩いている東京の過去やそれに宿る思想に「気づかされた」感じ。
個人の短期の視点では見えない利益に、意義を認めること。過去からの利益を享受しておきながら、その視点が全くなかった自分が恥ずかしい。
2009年5月27日水曜日
2009年5月26日火曜日
相剋のフェイトライン
古ッ! というのがまず最初の感想。
改めて振り返って、世紀末的なディストピアは911を境に全然見なくなったなあ、と実感する。WTC崩壊のようなドラマを見せられたら、世紀末的ディストピアにリアリティなんて感じづらいのも当然で、ライトノベルに出てくる敵組織が「もう一つの正義」をいただくテロ組織にシフトしていっている……という流れは確実にあると思う。民族の対立とかがキーワードになってくるわけか。
そうやって考えてみると、この小説の「超能力で世界を牛耳ってる凄いディストピア組織」と「それに迫害されつつ間違った正義に反抗する能力者主人公」という対立軸は、やっぱり古い。古いのは一概に悪いこととは言えないんだけど、その形式の中から今の時流に対しての問題提起があるといいんだけどなあ、と思ったりもする。望み過ぎってことはないと思うんだけどなあ。
それはさておき能力者バトルモノとして見たとき、それぞれの能力が厳密に規定されていないため、「こんなこともできるよ!」という後出しじゃんけんバトルになってしまうのがなんとも。修行&成長型のストーリーではなく、三人称でキャラとキャラの組み合わせによるストーリーなのだから、ある程度手の内を見せつつバトルの行方を読者に想像させることが必要だと思う。地形などの利用の仕方も非常に残念。
キャラクターについても、読者に血肉が伝わらない印象。目の前で両親を焼き殺された、って回想で説明されただけで滂沱して感情移入するほど読者はカモじゃない。キャラクターに哲学を。好感を。感情移入を。
2009年5月23日土曜日
神のまにまに!―カグツチ様の神芝居
「騙り手」という免罪符を手に、AとBという対立するふたつの集団を騙し上げ、見かけ上の平穏を作り上げて万事解決、という主人公の立ち位置を、自分は認めることができない。それでは根本原因が解決していない。
この作品で対立が解消されるきっかけが、アマテラスという絶対者の介入や神の起こした災害という、外部からの強制であることも、納得のいかない理由。
本来ならば妥協点を見つけ合うことのできるAとBが、「騙り」という手段によって、お互いの誤解に気づくというのが理想。「騙り」とはあくまで手段であり、到達点ではないはず。
ところが本作品は「騙り」が到達点になっている。問題が解決していない。そこにあるのはただ仮初めの平穏だ。
で、ぼくのかんがえた『神のまにまに!』。
クライマックスで婦人会会長が河童と邂逅したとき、「騙り」は完成されてはならなかったのではないか。
騙そうとする河童。騙されかけた婦人会会長。しかし婦人会会長は、母としての直感から河童が息子と別人であることに気づく。婦人会会長は河童に殴りかかる。殴られる河童。婦人会会長は、息子にまで化けて人を陥れようとするなんて、なんて汚らわしい存在なのだろうと、河童を罵る。そこで河童は、婦人会会長の息子がかつての親友だったことに気づく。河童の告白。婦人会会長が知る息子の死の真相。
少年の死に対する誤解は、対立の原因の象徴である。
「河童」という存在に罪をなすりつけていた母親が、真相を知ることでようやく息子の死に向かい合うことができる――とか筋書きを用意すれば、騙りなんて納得のいかない解法を用意しなくとも、上手い具合にストーリーが収まるんじゃないか。
「神」が側にいることで、中途半端に達観した視点を持った主人公を、「騙り手になりきれない騙り手」として描くのも面白そうだ。完璧に他人を騙すことのできる最高神アマテラス。騙されてもしあわせであるならばそれでいいではないか、と主人公を導く。
しかし主人公は納得いかない。騙りきれば簡単にしあわせにできるものを、人間の情が理解できるものだから、つい騙りきれずに失敗し、様々な困難を背負うことになる。だがその失敗こそが、物語をあるべきハッピーエンドに導くのだ。で、そんな主人公の騙り手になりきれない欠点が、アマテラスから非常に魅力的に見える……とか。
2009年5月22日金曜日
果てしなき渇き
2009年5月18日月曜日
オルキヌス 稲朽深弦の調停生活
率直に言ってギャグが全く面白くないと感じたのだが、同様に全く面白さのわからなかった『生徒会の一存』がアニメにまでなっている以上、面白くないの一言で済ませるわけにはいけないのかもしれない。
ギャグの面白さとは何か、ずっと考えている。
ひとつ感じたことは、もしこの小説がアドベンチャーゲームだったとしたら、同じ台詞のやりとりも面白く感じられたのかもしれないということだ。立ち絵でキャラクターの表情がわかり、音声で台詞のニュアンスが伝えられれば、会話の受け取り方が違ったかもしれない。
逆に言えば、この小説は台詞の外のニュアンスを伝えることができていなかったのではないかと思う。自分は読者として、しばしば作者のギャグにおいて行かれたような印象を受けた。
そしてそのおいて行かれたような印象は、ギャグだけでなく作品全体にも感じられた。作者の持つ世界観の常識が、読者にきちんと伝わっていないため、常識のずれから生じるギャグやストーリーの意外さが、余りよく機能していない。
たとえば「ツンデレ」のようにキャラクターを類型化する作業は、もしかしたらその行間を埋め合わせる役割を担っているのかもしれない。共通の枠組みを利用することで、会話だけのやりとりだけでもキャラクターの言葉のニュアンスを想起させることができる。
じゃあ『生徒会の一存』で、普通の読者は行間が読めており、自分はキャラクターの共通認識を持っていないが故に、面白くないと感じられてしまったのか?
うーん、そうじゃないと信じたいんだけどなあ。
リビングデッド・ファスナー・ロック
2009年5月14日木曜日
クリスナーガ
主人公が眼鏡メイド・エレに騙されていたことが発覚して切れるシーンがある。あのシーンは表面上、自分を騙したことへの怒りを表しているものの、その根底には「無力な自分への鬱屈」があったはずだ。
突然異世界へと召喚された主人公は、訳もわからないままに世界を揺るがす大事件へと巻き込まれ、自分の無力感にさいなまれていた。それを救ったのが無表情な眼鏡メイドのエレであり、彼女が側にいることが主人公の心の支えとなっていた。
ところがある時、エレが主人公を騙していたことが発覚する。彼女は主人公自身を必要としていたのではなく、主人公の力を利用しようとしていただけだった――無力な自分に直面させられたからこそ、主人公はまるで別人のように怒りを露わにしたのだ。
だから本来ならば、主人公がエレとの関係を修復するためには、「自分がここにいることに意味がある」ということを証明する必要があったのではないか。
「実はエレにはこんなトラウマ過去があったんだ!」という新事実が露わになり、自分の至らなさをいくら反省したところで、主人公の無力さという根本問題は解決しないのだ。
2009年5月12日火曜日
2009年5月11日月曜日
スラムドッグ$ミリオネア
Q.どうしてスラム育ちの少年がクイズに答えてミリオネアになり得たのか?
A.映画だから
まあ映画で脚本があるんだから、クイズの内容なんていかようにでも操れるわけで、各エピソードもそれに合わせて配置できる。当たり前だけど。
そんな前提条件の中で、それでもこの問いを映画の大きな引きにするのだから、恐らく前半の回想はフェイクでもっと大きな仕掛けが炸裂するんだろう……と期待してたら見事に肩透かし。
作為的なクイズがあくまで恋愛という運命を成就させるための踏み台にしか過ぎない、という恋愛至上主義を持ち出すことで、うやむやのままにエンターテインメントしてしまったのだった!
「どうしてスラムの犬が億万長者になれたのか?」
「一人の女性を愛し続けたからだよ!」
それは流石にやりすぎだと思う。
2009年5月8日金曜日
ヒミツのテックガール ぺけ計画と転校生
2009年5月1日金曜日
耳鳴坂妖異日誌 手のひらに物の怪
別にオカルトなことを言うつもりはないけれど、物語ってのは登場人物やら立場やら設定した時点で自然と構造が決まり、語るべきテーマが生み出される――と自分は信じている。力学っつーかなんつーか、まあそういうモノ。
で、今回読んだ『手のひらに物の怪』は、そういう力学がすげーはっきり埋まってて、でもそこから導き出されるテーマがあんまり上手く掘り出されてないと感じた。
ので、後出しじゃんけんならなんとでも言えるぜ! 僕の考えた『手のひらに物の怪』いってみよう!
1.妖異とはあちら側の存在でなければならない
妖怪は境にいるものとかなんとか聞いた気がするけれども、読んで字のごとく妖異は日常から離れた場所にいる存在でなければ意味がない。
今作は大まかにいって、こちらとあちらの境界を軽率に踏み越えてしまった主人公が、しっぺ返しを受ける物語だ。そういった構造を際立たせるために、前半と後半の妖異像は明らかに異なった印象を与えるように描かれている。
しかし、自分には前半と後半のギャップが、ややアンフェアに表現されているように感じた。いろいろと理由はあると思うが、やはり主人公が境界をまたぐ前半の描写に、障害がなさすぎるのではないかと思う。ほのぼのとした妖異とのふれあいの中にも、「主人公は境界をまたいでいるのだ」という注釈を読者にもきちんと伝えることで、後半主人公の犯す失敗の重みが全く違ってくるはずだ。
2.支部長は過ちを犯してはならない
支部長はコミュニティを束ねる存在であり、各人員のひとつ上位のレイヤーで物事を見据える存在である。作中の描写からしても、彼は当面本作品における判断の基準点になるはずだ。
その支部長が、周囲の常識的判断と正反対に、主人公を不可思議な理由で受け入れているのだから、その判断は正しくなければならない。(おそらくこの支部長の判断が、1のように妖異が日常と異なるものに見えない大きな原因になっているように思う)
本作品において、支部長の判断は誤りだった。
もちろん、主人公の背後に強大な力が存在することを見抜いた時点で、「ひとつ上位のレイヤーで物事を見据える」という、物語上の役割は果たしているようにも見える。
だが彼の判断によって人員が瀕死の傷を負ったのも事実で、そうなった以上、支部長の判断は誤りと判断されてしかるべきだろう。
まあしかし、主人公が判断を誤り仲間を死に追いやらなければ物語が駆動しないのも事実。
自然な解決法は、「支部長が主人公に誓約を交わさせる」ことだろう。もし誓約が守られれば誰も傷つくことがなかった――といういいわけを用意することで、支部長の立場が保証される。
また、主人公が仲間を傷つけてしまったという負い目を、制約という非常に強い形で提示することにより、物語は大きく駆動させられる。
3.主人公の動機は贖罪が望ましい
さて、興味半分であちら側の存在に手出しし、仲間に瀕死の重傷を負わせるという大失態を演じた主人公は、一度組織を追い出されることになる。
彼は人間と妖異の圧倒的な力の差を見せつけられ、通常の人間が関与できない、非日常の理があることに気づかされるのだ。主人公は興味本位で、またいではいけない線をまたいでしまっていたのである。
「(前略)おうちに帰んな、坊や」(p.220)
組織を追い出す際の支部長の台詞はまさにそれを示している。本来ならば、子供である主人公がどれだけあがいたところで、大人になれるはずがないのだ。
しかし物語とは因果なもので、主人公がそこで日常へとどまり続けるわけにはいかない。一度組織を追い出されつつも、主人公はあちら側へと再度アプローチしなければならないのだ。
「役立たずを返上しよう、草太。使えるやつなんだって証明するの」(p.236)
上の台詞にもあるように、この物語において主人公の再アプローチの動機付けは、「自己実現」として描かれている。そして物語は最終的に主人公があちら側の力を使うことにより、自己実現が成し遂げられることになる。
しかしこの時点では、主人公があちら側の能力を扱えることが保証されていないため、主人公の動機付けが自分勝手なものに感じられてしまう。
この時点で、支所長の「主人公が足手まといである」という大人の論理は正当なものであり、主人公もそれに反論はできないはずだ。
それでも主人公があちら側に関わろうとするのなら、その動機は自己実現ではない別種の論理であるべきであり、おそらく「贖罪」がふさわしいだろう。
「自分が足手まといになる」という大人の理屈は確かに正しいが、しかし、それでも自分が犯してしまった罪を償いたい、自分のせいで傷つけてしまった彼女を救いたい――そんな動機が主人公を行動させれば、より物語の構造がすっきりとするはずだ。
4.ヒルダの役割ーー死者への憧憬
興味本位で異世界へと足を踏み入れ、そのせいで仲間との別れを経験してしまった主人公。これからも彼が異世界へと踏みとどまろうとするのなら、同じような危機が何度も襲いかかるはずであり、そのたび失ってしまった仲間――すなわちヒルダの記憶が脳裏をかすめるはずだ。「彼女のような目に遭う妖異をなくしたい」というのが主人公の動機になり得るのである。
その意味でも、ヒルダはもう少し「憧れの人」としての側面を描いた方が効果的に機能したのではないかと思う。死者への憧憬は永遠である。セイラさんである。
また、子供でありこちら側の世界の人間である主人公と、大人でありあちら側であるヒロインの対比というのは、やはり構造的に美しく見える。
5.刹里の役割ーーライバルとの対比
当初は主人公の先導者として、より「大人側」「あちら側」を進んでいる刹里。だがラストシーンで主人公は覚醒し、彼女よりも潜在的に高い能力を持っていることが示唆される。
おそらくここから先は、努力で積み重ねた能力により勝利への確立を少しずつ高めていく刹里と、高い潜在能力で状況を逆転する主人公との対比が生まれるだろう。
しかし、たとえ能力でのアドバンテージを失っても、刹里は精神的に主人公より「大人」であり、彼よりも多くのものが見えているはずだ。その点も含めて、以下に引用した初期のやりとりはいかにも皮肉で、ふたりの関係性を見事に表しているなあ、と感じた。
「あんたさ、ひょっとして学校の成績が良かったりするタイプ?」
「……何よ、急に」
「頑張ったら頑張ったぶん、結果が出て当然だと思ってるだろ?」(p.65)
能力的にはほぼ同じ立ち位置にありながら、努力と才能で分かたれるライバルヒロイン。恋愛を絡めるにはうってつけのポジションではないだろうか?
6.ミコトの役割ーー異種恋愛による正ヒロインの保障
本作品において、メインヒロインの位置にいるミコトは、外的なストーリー展開においてなんの役目も果たさない。何か特殊な攻撃能力があるわけではないし、運命的な役割を果たすわけでもない。
それでもメインヒロインとしての全うするならば、彼女は内的な動機を支えるべきだろう。一度は組織から追い出され、妖異にそっぽを向かれた主人公。折れかけた彼の心を再び奮い立たせたのは、たった一人残った妖異のミコトだった……というポジションである。ミコトが「携帯電話」についているのは、彼女がコミュニケーション能力に特化したことの象徴としてとれるだろう。
また、ヒルダでのエピソードでも言及されていたが、異種族が愛し合うことが禁忌ーーというのは、これからこの作品が続くにつれ、避けられないテーマとなってくるはずだ。しかしそれを乗り越えてなお、相手を愛そうとするその強い意志を表現することができたとすれば、それは「耳鳴坂妖異日誌」という作品の中で、なんの能力も持たないミコトが正ヒロインとしての立場を全うする説得力となるだろう。
2009年4月29日水曜日
2009年4月28日火曜日
2009年4月24日金曜日
原点回帰ウォーカーズ
変な話である。ファウストの直系がようやく市場に出てきた感じ。
ループする物語の中で記号化される主人公たちが記号化された死を繰り返し、運命に抗おうとする話。
虚構に虚構を塗り重ねたところでいったい何を生み出すか、というところが重要になってくるのだと思うし、実際最初の章ではまさしく記号を逆手にとった描写が非常に良くできていたと思う。
だが、読み進むにつれて主人公のモチベーションと読者の希望がどんどん乖離していくのはなんとも。繰り返される死という記号は、物語が進むにつれて悲劇としての説得力を失っていく。
通常のループ物の場合、メタ視点を獲得するのが主人公のみで、その孤独が読者の共感を得るきっかけであったりするのだが、この小説においては登場人物の多くがメタ視点を獲得するため、さらに共感を得ることが難しい。いっそ開き直ってしまえばいいと自分は思うのだが、しかし最後に迫る運命をひっくり返すのは、あくまでも愛なのである。うーむ。
虚構と虚構を塗り重ねた世界の中、それでも輝く愛こそが運命をはねのけることができる……という筋書きだったのかもしれないが、構造的に問題がある印象。
2009年4月23日木曜日
MIB
長いことライトノベルを読んできて、これだけ主人公が気にくわないのは久しぶりだ。
喧嘩の後に「オレは謝るからおまえは上から目線やめろ」って理屈でヒロインに迫る主人公、どうやって好感持てばいいんだろうか? あり得ない。
本筋に全く関係ない竹林というネタキャラクターがあれほど無駄に描写されているのを考えると、主人公の性格の悪さも作者が意図したものではなくて、おそらく力量不足なのだと思う。
ハーレム小説の主人公が凡人で常識人なのは読者の感情移入の対象だからであるが、その凡人も「光るもの」を持っている。
社会はそれを認めてくれないが、しかし確かに心に秘めた「光るもの」。それはヒロインたちが凡人である主人公に惹かれる理由であり、同時に読者から主人公への共感の入り口である。
それは「愚直なまでの優しさ」かもしれない。「周囲の目を気にしない正義感」かもしれない。「どんな苦境に遭っても、女性には優しく接する」という信念かもしれない。
だがいずれにせよ、「光るもの」という行動原理を元に、読者は主人公に感情移入し、主人公のハーレム状態に心躍らせる。
だが、もしも凡人たる主人公に共感できる行動原理が見あたらなかったら?
「嫌いな人」の恋愛話を楽しく聞くことはできず、「嫌いな人」にべったりなヒロインに、好感は抱けない。
おそらくこの作品の主人公の行動原理が意識されれば、ヒロインの立場との関係性から物語の大筋が導かれたはずで、そこを作者なり編集なりが自覚していれば、竹林なんてキャラクターは不要だ。
たとえば主人公の行動原理が、祖父譲りの「生活力」「礼儀正しさ」にあるとすれば、異世界からやってきた「生活力がない」「人間を下等生物としか思っていない」ヒロインとの対立軸がはっきりと浮き彫りになる。
礼儀正しさへの意識の違いから、「常識」と「非常識」と思えていた対立図式が、ヒロインのバックグラウンドを知るにつれ、「常識」と「もう一つの常識」のすれ違いだと言うことがわかるその課程を描くのであれば、ファーストコンタクトものの意味もより出るだろう。
ギミックのおもしろさを競うのはそれからで充分だ。
2009年4月22日水曜日
シュラキZERO きみが私の騎士だから!
官能小説は印刷された文字に勃起するんじゃなくその向こうにあるものに勃起するんだっつーの。「キャラ」の向こうに心揺さぶるものを描かずして、こういう小説を書く意味ってあんのか? よくわかんないけど。
能力を持つヒロインと無能の主人公のギャップを描くためには、まずヒロインの強さを描かなければならない。文章中でいまいち描写が弱かったことや、挿絵に全くそういった要素がないのは、この小説の一番大きな傷だと思う。
「なぜ戦闘美少女でなければならないのか」という問いに答えて初めて、内面的に隙を抱えた少女たちとの日常が意味あるものになるのに。
定型の変奏は、主題を正確に捉えて初めて成立する。原作付きだかなんだか知らないが、もう少しまじめにやって欲しい。
2009年4月15日水曜日
2009年4月14日火曜日
サディスティック88
ヒロインが強気なこと言って主人公をブン殴ってればヒロイン像完成! って今風ラノベの作者にはこれを熟読していただきたい。Sとして愛を育むのはそんな単純なことじゃないんだよ! Sの根底に愛が必要と喝破したのももちろんだけど、あとがきで「パートナー」の存在に言及した作者はたぶん間違いなく本物。
ストーリー的には「父親再婚で連れ子家族でまあ大変」という手垢まみれの代物だが、本筋が手垢にまみれようがなんだろうが面白いものは面白いわけで。一巻の量でこれだけのキャラに役割を与え書き分け、「学校盗撮問題」というこれもまたいかにもどうでもいいような本筋でありながら、きっちりSvsS頂上決戦的なドラマを成立させているのもすばらしい。あとライトノベルのエロスとはかくあるべき! な感覚を久々に呼び起こされてちょっと泣きそうになる。
作者は本当にわかっていますね、としか言いようのない十全なSMライトノベル。グレイト。
2009年4月8日水曜日
2009年4月3日金曜日
いつも心に剣を 1
1巻目の導入としてみたとき主人公たちに積極的な目的がなさ過ぎるという欠点はあるものの、内的ドラマでぐんぐん読まされてしまった。
市民や義勇兵の象徴性があまりにも極端で、君と僕の純粋さと極端なコントラストを成しているものだから、そこで単純に善悪を定めちゃうのかなあ、と思ったが騎士団のおかげでそうはなりそうにない。きちんと汚い大人の世界の説得力として機能してくれそうだし、君と僕の間にも悲劇臭がプンプン。これからの展開に期待できる構造が埋まっている。いいね。
例の一人称短文パートは、文体としての武器になり得る力を持っているのだから、乱発はよした方がいいと個人的には思う。映画でもスローモーションは見せたいところに絞って使う。
2009年4月2日木曜日
ぷっしゅ!
エンターテインメントはその本質を極力隠そうとする。
コンピューターRPGの本質は、「大きな障害(ボス)を倒すために小さな障害(雑魚)を倒し自分のレベルを上げる」ことにある。小さな障害の積み重ねが、 大きな障害を倒す担保になるわけだ。だがしかし、RPGを「カタルシスのための装置ですよ」なんて言うクリエイターはいない。むしろその本質を隠匿するた めに、物語やらゲームシステムやらに様々な工夫を凝らす。
恋愛シミュレーションゲームならばさらにわかりやすい。恋愛シミュレーションはそのジャンルからして、ヒロインと結ばれることが保証されている。しかしゲームのプレイヤーは、プレイ中にその保証をできる限り忘れたいと望むに違いない。「どうせヒロインと結ばれるんだけどね」という本音は別として、「この恋愛は果たして 成就するのだろうか?」という建前こそが、プレイヤーをエンターテインメントに没入させるのだ。
さて、この作品はずばり「ヒロインを恥ずかしがらせたい」という動機が本質であるのだが、それを実現するまでのプロセスを追ってみると以下のようになる。
「1.強大な敵がやってくる」
↓
「2.ヒロインが恥ずかしがると覚醒して敵に対抗できる」
↓
「3.恥ずかしがらせるしかない!」
絶対おかしい。なぜ、恥ずかしがることが強大な敵へと対抗しうる力を発揮することに直結するのか。「2」は明らかにストーリーの枠組みを外れた、「作者の都合」を想起させずにはいられない。通常の物語において、作者の都合が見える構造は「ご都合主義」と非難される。
物語の枠組み内での説得力を持たせるために、せめて2番を分解し、
「1.強大な敵がやってくる」
↓
「2.ヒロインが強い感情を抱くと覚醒して敵に対抗できる」
↓
「3.ところでヒロインはものすごい恥ずかしがり屋だ」
↓
「4.恥ずかしがらせるしかない!」
といったあくまでも物語の枠内での説明を行うべきだ。
創造主に「こつこつレベルあげてカタルシス得たいんでしょ?」「ヒロインと結ばれたいんでしょ?」「恥ずかしがる彼女が見たいんでしょ?」と直接聞かれて嬉しい受け手がいるだろうか?
いやまあそれを除いても傷が多すぎる作品だとは思うんだけど。
脳挫傷を負わせようとかいうヒロインの言動は明らかにギャグとして処理できる範囲を超えており彼女に好感を抱きようがないだろうとか。
見た目の問題からして白虎とコンビを組ませるべきは力強さの象徴ではなく儚さの象徴であるべきだろうとか。
「ヒロインを恥ずかしがらせたい」という動機が作品の本質なら行き当たりばったりの変身ではなくもっとヒロインが恥ずかしがるシチュエーションにこだわりを持つべきだろうとか。
2009年4月1日水曜日
生きものの記録
何この力業?
「原爆」にリアリティがないのはおそらく自分の世代の宿命で、老人の動機に共感できないのは仕方ないだろう。
だが、それでもあの老人の狂気じみた行動に感情移入をさせられてしまったのは、「土下座」のシーンがあまりにも心を打ったからだった。あのシーン以前と以後で、物語には大きな外的な変化がない。「やれやれこのじいさんみんなを呼び出して、また一緒に来いとか怒鳴りつけるのか」と思ったら土下座である。それまで全く「原爆」という動機に共感できなかった自分も、血族への愛情ははっきりと共感できた。老人を駆り立てていたのは、狂気と紙一重の愛情だったのだ。それを理解した瞬間、それまで全く共感できなかった老人への同情が、一気に湧き出した。まったく、アレが力業じゃなくてなんだってんだ。
深すぎる愛情はやがて狂気となり、老人は精神病棟へと入る。映画は血族とそれ以外の愛情の差異をくっきりと浮き彫りにしながら、終幕を迎える。
ああ、恐るべし橋本忍! この脚本から滲み出る情念! そしてそれを最大限発揮できるように設計された全体の構成!
幻想綺譚クラウストルム 夕闇の血族
ものすごく馬鹿に見えるキャラクターがいるとして、それが殿様という設定であることがあとでわかっても、一度馬鹿だと感じたキャラクターが偉く見えるわけではない。普通はむしろ逆で、そんな馬鹿が殿様をやってる国はたいしたことないと感じるだろう。
設定がキャラクターの印象を形作るのではない。キャラクターの印象が設定を保証するのだ。
どれだけ強さを設定で補強したつもりでも、そもそも読者がキャラクターの行為からその強さを実感できなければ何の意味もない。TRPGで「俺TUEEEEEEE」してるんじゃないんだからさ。
あとオリジナリティがないことには特に文句は言わないんだけど、だからといってヴァンパイアハーフって設定がまあよくある定型としてしか扱われていないのはさすがに問題だと思う。何か工夫を。